昭和の終わりから平成の初め頃の医局での思い出
私は1960年生まれの整形外科医です。父が高崎駅の東口で、私が生まれた年に有床の整形外科の医院を開業し、現在はビルになって、その最上階の8階で細々と、整形内科をやっています。
今では女性の整形外科医も増え、群馬大学の同門の女医さんは私を含め26名です。私が入局したときはゼロでした。(1人いらっしゃいましたが麻酔科に転向されました。)入局時の、医局長の言葉が今でも印象に残っています。「君は力がありそうだから大丈夫だろう。」麻酔科に転向された先生はとても華奢な方だったのです。整形外科医は、脚持ち3年、鈎持ち2年と申しまして、まずは体力、知力は二の次。(そんな事はありませんが。)私に向いている、と思いました。女性医師が他にいなかったので、今思うと割と自由にさせてもらっていたと思います。逆に、前例がない分、男性医師も私をどう扱っていいのかわからなかったのかもしれません。よく言えば大事に、悪く言えば腫物に触るように。私も女子高、女子大(東京女子医大)出身なので、戸惑う事ばかりでしたが、嫌な思いをしたことは殆どありませんでした。
思い出すのは、結婚が決まった時、医局の先生から、まず教授に報告しなさい、と言われて報告に行った時の事です。その頃は教授が結婚式に出席するのは当たり前だったので、教授のスケジュールを確認する必要がありました。その時の教授の最初の言葉が、「医局をおやめになる時は早目に医局長に言っておきなさい。」でした。(おめでとうございます、の前にですよ?)さすがに私もこれには衝撃を覚え、そうか、結婚したらやめなきゃいけないのかな、私って戦力になってないのだな、などとボンヤリ思ったものです。とりあえず、子供が生まれても在局していました。第1子の出産後3ヶ月で大学での仕事を再開したのですが、胸が張って張って、痛くてたまらないので、仕事の合間に群中にマッサージを受けに行かせてもらったり、外来の片隅で搾乳して、その母乳を医局の冷凍庫に入れさせてもらっていました。冷凍庫を開けた医局員が、「この白いの、何?」と聞くと秘書さんが、「内堀先生の母乳です。」と答えていたそうです。(今思うと顔から火が出るほど恥ずかしいです!)
すごく嬉しかったのは、私のお腹が大きい時、ストレッチャーで患者さんを運んでいたら、後輩の先生が「先生、だめですよ。僕がやります。」と言い、お腹を指して「うちのかみさんもコレなんで。」と代わってくれました。また、身体障害者の認定にバスで巡回に行く時も、当番の私が乗って出発を待っていたところ、同僚の先生が乗り込んできて、「今日行くのは山の方だから俺が代わるよ。内堀さんは外来に行って。」と言ってくれたり。ホントに大切に扱っていただきました。
結局、第2子を妊娠し、父の病気のこともあり、医局をやめて、実家と関連病院で働いていました。その間、実家で子供をみてもらえるので大変恵まれた環境だったと思います。そうでなければ、3人も育てられなかったでしょう。
先日、TVで、富山大学の外科教室が手術も複数の医師がリレー形式で行っているのを見ました。女性医師が、(勿論男性医師も)スキルも上げながら家庭の時間も確保できるのです。時代が、働き方が、どんどん変わっていくのを感じます。 次回のミネルヴァは、同じ高崎駅の東口で開業されている、木村淳子先生にお願いいたしました。
