来し方
「まだ上州の山は見えずや・・」ゆったりと走る車窓から初めて見た赤城山。国語の教科書で憶えた朔太郎の詩を思い出していました。あの日から数十年、私の原風景の一つです。
一人暮らしが始まりました。「自転車に乗れないとこの土地では暮らせないよ」と言われ、20才間近に友人の手ほどきを受け、何とか乗れるようになりましたが、その友人は卒業を待たずに他界しました。同期の桜60人、その内8名が女子。出産で1人が中退し、卒業時女性は6名でした。
その頃の卒後研修はインターン制度。1年間は、無給無資格のインターン生として研修し、その後に国家試験を受ける仕組みになっており、この無給で働くインターン制度は労働搾取だとして、反対運動が台頭していました。当時は、安保闘争など学生運動の基盤もあり、医学部においてはインターン問題が顕在化、東大を中心に青年医師連合(青医連)が結成され、インターンボイコット、否入局、自主研修、国家試験ボイコット等を謳って全国の医学部にインターン反対闘争が繰り広げられたのです。国会議事堂の前でのデモにも参加。白衣を着て、『インターン制度 はんた~い』のシュプレッヒコール、多くの人は「ノンポリラジカル」と自称しており初めての体験。初めは気恥ずかしく小声でしたが、周りに押されて段々声は大きくなっていきました。
私は、卒後の一年は都内私学の研修医となり、その後群馬大学の精神科の教室に自主研修の非入局医として同期6人と所属しました。当然、先輩の医局の先生方には歓待されるはずもなく「自主研修だろ、自分で研修しろ」と・・・。卒業の最終講義で「卒業後の2年間が大事。その2年が医師としての一生を決めるんだ。」と締め括られた某教授の言葉が度々思い出されていました。
医局の先生方のご理解が得られ始め、居心地が少しずつ良くなった頃、青医連が解散されました。拠り所を失った我々は、翌年それぞれの選択をし、大学を去って行った同志もいました。
年月をかけて卒後研修制度は大きく変わりました。自身の卒後研修では積み残してきたものは多かったと思いますが「されどわれらが日々」。得てきたものも沢山あったのだと今は感じてます。
仕事が充実し始めた頃は、私生活では家事・育児の真っ最中。そういうものだと受け入れつつも、日進月歩の医学は一度休むと付いていけなくなる、最後尾でもいいから・・と自分を鼓舞していました。家事は手抜きの腕を磨きつつ、結局は多くの方々の好意に甘んじてきました。『育てられた』より『育った』と思っている二男二女は、みな思い思いに巣立っていきました。
高崎市医師会理事就任のお話を頂いた時、お声をかけて下さった先生のご熱意が自分の年齢への躊躇を越えてしまい、更に1期のつもりが4期務めさせて頂きました。理事の任務は、多分に漏れず容易くはない事でしたが、私の人生の中で最も充実した時期であったと退任した今も感じています。