医学部卒業後を振り返って
1992年に群馬大学医学部を卒業後平井教授が主宰する神経内科に入局、大学及び都立老人医療センターで研修し、美原記念病院勤務後に大学院に進学しました。基礎を学びたく、分子病態の小宮教授から医科研の御子柴教授に紹介いただき、ERATOで実験していました。年間予算数億円の異次元世界でした。卒後夫の留学について行ったCaliforniaでは、BeckmanInstituteでBossのMikeの下ポスドクとして働きました。全ての給料をNational Park旅行に注ぎ込んだ人生の夏休みでした。悪夢のような9.11の翌年、実家の病院を手伝うため2年半で帰国しました。
実家の篠塚病院に戻り、途中2人の娘を出産しました。長女は切迫流産のため妊娠6ヶ月で入院し皆さんにご迷惑をおかけしました。次女の時は出産前日にも働き、産後1週間でベビーシッターさんにお願いして職場に復帰しました。夜気付くと次女がダイニングテーブルの下で寝ているような毎日でした。そんな娘たちも、あっという間に大きくなり、長女は一浪して第一志望の大学に進学し、次女は只今受験戦争を迷走中です。
2020年12月22日のことは今でも忘れません。COVID-19 陽性者が前日病棟で一人判明、22日に4人増えてあっという間に県内5番目の病院クラスターと認定されました。保健所とのやりとり、HPへの通知文の作成、新聞社からの問い合わせに対応、外来閉鎖の電話など嵐の様でした。陽性者のご家族へ電話で報告し、罵声と励ましの言葉をいただきました。その晩から中二と高二の娘達はそれまでいた病院の宿舎とは別の住居に住むように手配し、親戚にお願いして布団と生活費を渡してもらいました。二人に電話で説明しながらずっと泣かれたのが辛かったです。年明けにクラスターが終息してから私だけ娘たちに会いに行き、久しぶりに作った夕食を本当に嬉しそうに食べているのを見て涙が出ましたが、また二人を置いて病院の宿舎に戻りました。数日後、次女が朝駅に置いた自転車がパンクしていたと泣きながら電話をかけてきました。我慢の限界だったのかタクシーで行くよう話しても電話先で号泣しており、泣きながら教室に入り、新聞の一面に載った病院のクラスター記事で事態を察していた担任に抱きしめてもらったそうです。その後病院や施設で起こった幾多の混乱を経て夫婦で共倒れすることを恐れ、数ヶ月後には私だけ子供達と暮らすようになりました。現在週末は父娘が会える貴重な時間になっています。あの時は色々な方々にお世話になり、言葉では感謝しきれません。また、COVID-19 流行のごく初期のクラスターで、感染制御ができているのかと今では考えられないような不安の中でも、逃げずに必死で痰の吸引や食事介助を続けてくれた病棟スタッフは私の誇りです。
卒後を振り返ると本当に色々なことがあり、多くの人にお世話になりました。今でも誕生日プレゼントを交換する友人にも恵まれました。どんな時も支え合ってきた夫には心から感謝しています。これからもお互いに体を労わって、元気に過ごしていきたいと思います。